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2014年3月 6日 (木)

日本ファンタジーノベル大賞 創設時の対談 (安野光雅×高橋源一郎)

昨年末に惜しまれつつも休止が報じられた、「日本ファンタジーノベル大賞」。
この賞が創設されたのは1989年ですが、それに先立つ88年12月に読売新聞紙上で、初代選考委員である、安野光雅・高橋源一郎氏が「ファンタジーとは何か」という対談をしています。

これが、なかなか面白い。というのも、ファンタジーノベル大賞の草創期エピソードに関して、世間に流布している話やイメージと、少しずれたところがあるからです。

「主催者側は、『ピーターパン』や『モモ』のような、児童文学的ファンタジーを想定し、受賞作のアニメ化を企画していた。ところが初回から、酒見賢一『後宮小説』という、その概念を全く覆すような傑作が現れたため、賞の方向性そのものが転換。以降、既成の枠組にとらわれない、自由奔放でスリップストリーム的な受賞作を輩出していった」

……というのが、一般的によく言われているお話ですね。確かに、主催者(三井不動産・読売新聞)は、そのつもりだったのでしょう。第1回の募集要項を見ると、「夢と冒険とスリルに満ちあふれた未発表の創作ファンタジー小説」が求められており、規定枚数の下限も150枚と短かめです。

 しかし、選考委員の意識は、必ずしもそういうわけではなかったらしい。
「児童文学でいうファンタジーはみんな何々チックなものなんですが、そういうものはだめ」(安野)とか、
「カフカの小説にはファンタジーが感じられる」「いちばんラジカルな現代小説がファンタジー」(高橋)
というようなことを、はっきりと言っているんです。第1回の作品募集が始まる、数ヶ月前の段階で。これを読むと、『後宮小説』は想定外どころか、まさに選考委員の期待に応えるような応募作、であったと言えるでしょう。

 そういうわけで、非常に面白い対談なのですが、なぜか資料としてあまり言及されることがないため、以下に要点をまとめます。


「座談会 日本ファンタジーノベル大賞創設 ファンタジーとは何か」
(読売新聞、1988年12月29日、東京朝刊、15頁)

・安野光雅(画家・絵本作家)
・高橋源一郎(作家)
・司会:後藤文生(本社文化部長)

◆「ファンタジーノベル」とは何か?
・文学は創造的な営みなので、定義や枠組みを安易に限定しない方がいい。(安野)
・ファンタジーとは、想像力に対する作者の態度の問題であるので、ジャンルとしてのファンタジーノベルにこだわる必要はない。童話・児童文学・SF・ホラー・純文学など、あらゆるジャンルを横断する概念になりうる。(高橋)

◆「ファンタジー=夢のおとぎ話」ではない
・小説だから、ファンタジーだから何でも許されるという、安直な態度では甘い。夏目漱石「吾輩は猫である」、井伏鱒二「山椒魚」などは、猫や山椒魚が主人公であるが、完全に地に足がついている。(安野) 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」も、当時の東北の現実でもあり、ヨーロッパ的な伝説の世界に根付いたもの。(高橋)
・我々の今いる世界は、中から見ていてもよく分からないが、別な世界から眺めたり、ちょっと視点をずらすことで、何かが見えてくる。例えば、カフカの不条理小説。その意味で、ファンタジーとは、最もラディカルな現代小説ということになるかもしれない。(高橋)
・ファンタジー自体に、甘いおとぎ話の性質はない。妖精や小人のお話、勧善懲悪、ハッピーエンド……等々、安直な類型化は避けるべき。そういう道具立てを揃えれば、即座にファンタジー「チック」にはなるが、決してファンタジーそのものではない。ディズニーのアニメなどは、その最たるもの。(安野・高橋)

◆ファンタジーの書き手とスタンス
・社会がブラックボックス化し、情報化が加速する一方で、リアリティが希薄している今、何を普通に書いても、勝手にファンタジーに近づいてしまう。特に、リアルな経験の乏しい、若い世代においては。(高橋)
・だからと言って、軽いものをわざわざ重くしようと考える必要はない。どれだけ希薄であっても、自分自身を根っこにするしかないのだから。もっとも、ある種の「重み」があった方が、上の世代には評価されやすい、というのは事実なのだけれど。(高橋)
・「ファンタジーノベル大賞というものがある→だから書こう」ではなく、書いてみたらファンタジーとしても成立する、というスタンスでもよいのでは。また、短編やオムニバス形式の優れた作品にも期待している。珠玉のファンタジーというのは、短くなる可能性があるから。(安野)

◆読者にファンタジーの需要はあるか
・現代の高度な資本主義社会は、情報が溢れている一方で、リアルな手応えの感じられない、不安な社会。人々は支えを求めて、ファンタジーを必要とするはず。これはリアリズム小説、これはファンタジー、という垣根はあまりなく、柔軟に読まれていくのでないか。(高橋)
・子供たちが児童文学を読む中で、すぐれたファンタジーノベルに出会えれば、さらに様々な本を読むきっかけとなる。「ガリバー旅行記」、「モンテクリスト」、「ドン・キホーテ」……。これらはいずれも、本来は児童文学として書かれたものではないが、多くの人は、子供用に書き直されたものを読んで、完結してしまっている。本当にすぐれた文学は、大人だけのもの、子供だけのものではないと思う。(安野)


要旨は以上。原文は、6000字ほどの分量があります。
気になる人は、新聞記事のオリジナルを読んで下さいね。

なお、安野光雅が「自分のところにも、よくファンタジーが送られてくるんだけど、凡庸な作品ばかりで……」と嘆いている場面があり、ちょっと皮肉がきいて面白かったので、引用しておきます。

「安野 ほとんどが森のなかに白亜の家があって、そこにどういうわけか少女がひとり住んでいて、名前は「瑠璃子」というんです(笑い)。[中略]それから、パパが朝、書斎でガウンを着て紅茶を飲みながら新聞を読んで公害を論ずるなんていうのもあるんです。何か道具立てがそろっていてつき合いきれない感じなんだな(笑い)」

ご意見ご指摘、質問などありましたら、コメント欄へどうぞ。

[参考文献]
大森望「大森望の新SF観光局(第38回):日本ファンタジーノベル大賞の二十五年」『SFマガジン』、2014年2月号
瀧井朝世「サイン、コサイン、偏愛レビュー(第47回):日本ファンタジーノベル大賞のこと」『波』、新潮社、2014年2月号
佐藤亜紀「ファンタジーノベル大賞とはなんだったのか」、『ユリイカ』第36巻第8号(通巻495号)、2004年8月

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コメント

「真逆」って言葉はやめてほしいです。これは「まさか」と読みます。

神宮さま
ご指摘、ありがとうございます。当該箇所を含む一文を削除しました。

この記事へのコメントは終了しました。

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